良かったね

こんな内容の投稿を読んで。。

これは、重度のアトピーのお兄ちゃんとその家族の話です。

或る日、弟が学校でいじめにあいます。
理由は、ファミレスに行ったことがないから。
お兄ちゃんが重度のアトピーなので、食事制限があり外食が出来ないのです。
両親は弟の為に家族でファミレスに行くことにしました。
弟にはお子さまランチを。お兄ちゃんには家からタッパーに入れて持参した食事がありました
店員に事情を話し、食べさせてよいか尋ねます。店員はタッパーを受け取り行ってしまいました。
母親が諦めた時、それは表れます。
きれいに盛り付けられたお子さまランチとして。

良かったね。本当に良かったね。
ファミレスにみんなで行って、兄弟揃ってお子さまランチ食べられて。
本当に良かったね。

普段、食べたい物も我慢して、痒くてつらかったり、眠れなかったり、心無い言葉に傷ついたり。

こんな家族の話を読んで、様々、人は口にしますが。。

こんな飛び切りうれしい計らいがあったのなら。
迷いなく良かったねと、素直に共感してあげたいではないですか。

その先に、人の知恵や見解が初めて生かされる場所が生まれて来るのだと思います。又、そうあって欲しいのです。

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言葉は七変化

あかさたな・・50音の文字で、言葉はいかようにも。

いかようにも姿を変える。

21日朝、BSの番組で作詞家 岩谷時子の世界をみました。
歌手  越路吹雪のマネージャーとしても知られた方でもあり、シンブルな言葉で美しい世界を紡ぐのが彼女の世界。

番組をみていて気がついたのですが、多分歌詞の魅力がメロディーを引き立てているのかもしれません。

何とも幸せな朝のひととき。。

反対に、たくさんの言葉の応酬、それがどれだけ人々を疲弊させていることか。

言葉はしばしば、人に投げつける石に姿を変えていますね。
それこそ、クズとして屑かごに投げいれよう。

言葉は、いつまでも人が心に留め置く宝石になりたいと願っているに違いない。

夢や希望や愛という名の数々に。

夜明けのうたは、東京オリンピックの年、昭和39年に書かれました。

http://youtu.be/brSKs6SwqQU

そして、キリンもしんだ

最近、アムステルダム動物園の話が物議を呼びましたが。。

頭数制限をしないと、成育環境がベストに保てない。最高の環境を整えることが動物の幸せに通ずる。なので、必要頭数以上の動物は痛みも何も感じさせず、瞬時に銃殺、その死骸は、教育の為、解体するのだとか。
たまたま、CNN の放送で、園長とアナウンサーとのやり取りを見てました。
園長の考えというのは一貫してぶれてない、徹底して一貫してましたね。

もともと、狩猟の文化があれば、動物を銃で撃つことは、日常あるでしょう。それが、生活手段であれば尚のこと。という論説もありました。

こないだ、こんな歌を聴きましたよ。北欧の昔から伝わる猟師の唄。

♪お前を撃つけれど、仕方ない。
お前が私たちの領域に入ってきたのだから。。仕方がないのだ。

私はお前を喰らう。
わたしは、お前の素晴らしい視覚が欲しい。

私はお前を喰らう。
わたしは、お前の素晴らしい聴覚が欲しい。

私はお前を喰らう。
わたしは、お前の素晴らしい味覚が欲しい。
・・・・・・

唄は、延々、熊の野生の力を讃え、続く。

それは、撃ってしまった野生の熊に寄せる畏敬と哀悼の念に溢れていた。
遠い北欧の唄は、東洋の違う文化のわたしの心の奥底まで共鳴してくるのでした。

今、何が正しいかの前に、人が忘れてしまったものがある。
そう思えてなりません。

だから、いくら理屈が通っても、心が通せんぼしてしまう。

トンキーの絵本は、ご近所の絵本作家の田辺さんに頂きました。
言葉少なく優しいおじいさまです。

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絵本のあとがきに、戦争中のことではありますが、、何の罪もない動物を殺処分しなければならないその苦悩、又、人間の友だちとして大事に飼っている動物、という記述があります。

もし、田辺さんのおじいさまが、アムステルダム動物園のキリンのお話を書くとしたら、どんな絵本になるでしょうね。

第三の眼

人は自分を知らない。

こんな事、言っていた占いのおじさんいました。

確かに、自分のこと解っているようで、案外解ってないものです。

 

こどもの事も同じです。

親は意外に子供のこと解ってない。

大事なこと見過ごしたり、逆に、心配が取り越し苦労だったり。

その、舵取りを間違えるとたいへん。

 

やはり、何と言っても、常に平常心でもって、こども達を観察できる眼。

毎日変わらない日常風景の中に、微妙な変化をキャッチ出来る直観。

よくいう、第三の眼の役割は大きいものがあります。

 

第三の眼とは、松果体。

松果体は、ケイ素です。

雪

大雪で、メディアは交通マヒのニュースばかりだし、聞いてるみんなも大変、たいへん、大変だあ。。

出掛けたパーティーで、こんな詩のような言葉をご挨拶にちりばめた方がいました。

天使が空から舞い降りる。

帰り道、ふわふわの新雪に足を取られ、雪まみれに歩いていたら、そのまま雪の中にからだを投げ出してもいいなあと思った。

翌朝には、溶けてなくなるとわかっていたから。

はかなさと永遠。

こんな降りの夜には、やっばりこの映画、このシーンを思い出してしまう。

産声

学生時代、音楽美学という授業があって・・

「赤ちゃんの産まれる時の泣き声は、Aの音なんですよ。」と。
Aとは、ドレミファソラ・・の、ラの音。

私たちはラの音で産声をあげたのか。
何とも、不思議でよく覚えています。

産まれたばかりの、子猫のニャーニャーという鳴き声がうるさいと、保健所さんを呼び捕獲を頼んだご近所さんがいるけれど、母猫は無言で子猫をくわえ、逃げたという。

その人の人生に何があったかは知らないけれど、かつて、Aの音でこの世に生まれ出た感覚を、彼は忘れてしまったのでしょうか。
まだ、母猫のお乳を飲んでいる子猫を仕掛け檻で捕まえて、山に捨てて来たというのだから。

色んな理屈を並べたてる彼の言葉の行き場も捨て場もない。

弱い立場の動物達はみんな押し黙るばかり。
人間の都合で好き勝手されたら、堪ったものではありません。

「雷が好きです。スカーッとするんですよ。」
先生、そんなことも言ってましたね。

モーツアルトが死んだ日も、シューベルトが死んだ日も雷だったって。

わたしは、やっぱり雷神様を、信じるかな。

驕った人間さまの頭上で天高く、ゴロゴロ、ピカーツとやって欲しい。

Aの音でもって、忘れちまった感覚を、ドドン ドドンと揺らしてほしいのです。

2歳児のスピードラーニング

スピードラーニング。  聞くだけで・・? フーム。。

よくよく思い出してみると、自分も同じようなことをしてましたっけ。

長女が幼稚園に入る前、毎日英語のビデオ見せてました。
オズの魔法使い。
優等生の選択かな。

まあ、少しでも英語に慣れることを期待してました。

ですが、子供もだんだん下の子になると、親のほうも力が抜けて来て、ちょっと変わったことしたくなるんですね。

5番目の子の時のこと。

彼女が2歳になり、そろそろ英語のビデオをと思い、試しにみんなが見ていたホームビデオを見せたところ、夢中になって見るので、そのまま毎日見せてました。

すると、午前に1回、午後に1,2回と・・そのうち飽きるだろうと好きにさせていたのが、そのまま半年もの間見続けました。

驚きましたね~今、思い出しても、凄い集中力。

魔の3歳児なんて、世間がいう大変な子育て期間は、同時に、素晴らしい才能開花の時期でもあるわけです。
何が幸いしたのか、いい経験させてもらいました。

その成果はきょうだいも認めるところなので、やっぱり、あれは、言葉ひとつ足して、スピード集中ラーニング。

但し、大人な私たちがこれを実行するには、一極集中して何倍も時間をかけてでしょう。。

2歳、3歳バンザイ!

この素晴らしい時期に、才能の種をまき、畑となる血肉を健やかに育みましょう。

静かな原風景

久々に横浜にも雪が。

それも積もらないボタン雪。

雪は、音もなく静かに降り積もるものだから・・・その静けさは幼い頃の原風景を想わせる。

日本海 柏崎 真っ黒い波のうねりは鯨波。

巨大な入道雲。

そして人っ子ひとりいない砂浜。

記憶には音がなく。 一枚の絵画のようだ。

一方、街中の、父親がほんの一年やっていたパチンコ屋の記憶は、威勢がいい。見事に音だけ。

多分その頃のお決まり?  軍艦マーチと流行歌 河は流れて(仲宗根美樹)。

この二曲は耳にこびりついて離れない。どうしてくれよう、お父さん!

視覚の記憶と聴覚の記憶は、別物ながら私の原風景にぴっちり納まっている模様。

そうして、時々、どこか懐かしさを覚える場面に出会う度、それは唐突に表れては私を驚かせる。

遠々眠れる自然の原風景は・・・色褪せる事を知らぬ記憶の絵画なのです。

心を撫でなで

今日は講習会があり、いざ新大阪へ!

席は、二人席の窓側。通路側席には既に男性客が乗ってられました。

背筋まっすぐのまま、その姿勢を崩さず、時折立ってはいなくなったり戻ったりで、誰かを探しているのかしらんくらいに思っていたのですが。。。

突然、こう言葉を掛けられました。

「その・・変な座り方したり、たったり歩いたりシテマスケド。腰が痛いからなんです。落ち着かないですが、変に思わないでください。」

意外な内容に驚きながら

「いえ。どうぞお気になさらず。。」

と、これまた、型通りの返答を。

真面目な方なのでしょう。。すごく痛そうなのを、じっと我慢しているご様子。

話しかけてみようか・・いや、迷惑かも・・など葛藤しているうちに、新大阪に着いてしまいました。

降り際、せめてと思い、「お大事になさってください。」と言葉をかけると,その方、すっくと立ち上がり頭を下げられびっくりしました。

その時、思いましたね。。健康に関わる仕事をしていながら、お隣の方に何故もう少し温かい言葉を掛けられなかったのか。何かお力になれますか?と、何故言えなかったのか。後悔することしきり。

前に誰か言ってましたっけ。

縁側で。 猫とひなたぼっこしながら、孫の頭や背中を撫でなでしながら、いい子だねーなんて おばあちゃんがやっているだけで、半分治ってしまうようなもの。

そんな心の処方が、大人でも痛みを持った人には大きな手当になるのかもしれない。

そうして、そんな処方を心のどこかで待ち望んでる人があちらこちらにいるのではと、思ったりしたのです。